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栃本関跡(秩父市大滝)

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写真: 栃本関跡(秩父市大滝)

写真: 栃本関跡(秩父市大滝) 写真: 栃本関跡(秩父市大滝)甲斐方向

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「秩父路 ・三峯山/旧秩父往還/武州一揆 (12.05.10.)」より一部……
2012年05月11日 01:47

●旧秩父往還――
秩父地方は、無数の峠によって武蔵・上野・信濃・甲斐などと結ばれていた。
江戸時代、江戸から秩父に至る往還(主要道)には、中山道 熊谷宿から寄居を通る荒川沿いのルート(熊谷通り)、川越から皆野町の粥仁田峠を越えて入るルート(川越通り)、飯能から正丸峠を越えるルート(吾野通り)の3つのルートがあった。
秩父から甲斐へ出るには雁坂峠、信濃へ出るには十文字峠が使われた。
江戸時代は、「入り鉄砲・出女」(江戸に住む大名の妻が帰国することと江戸への鉄砲の流入を阻止すること)などを目的に、自由な旅行が規制されていた時代。中山道と甲州街道のバイパスにあたる雁坂峠道と、中山道の裏街道にあたる十文字峠道は、秩父市大滝の栃本集落の先で分岐する。これらの街道を通行する人々は、麻生集落にあった加番所(関所の事務を補佐し通行手形に押印する)と栃本集落にあった栃本関所で検問を受けねばならなかった。
雁坂峠道は、戦国時代に武田信玄の手のものが、秩父市大滝の鉱産資源を採掘するのに頻繁に行き交った歴史を持つ。古くから甲斐国、武蔵国両国間の往来に利用され、秩父巡礼や富士登山、身延参詣など信仰の道として利用され、戦国時代には甲斐国守護武田氏の行った金山経営も秩父方面に及んだため往来に利用され、武田氏の北武蔵侵攻路の一つにもなった。
江戸時代になると、甲斐善光寺や身延山への参詣や、生活物資を甲斐で売買するために出る人々、また甲斐から三峰山への参詣のために入ってくる人々が多数、通行した。
十文字峠道もまた、信仰と生活・交易の道としてにぎわった。雁坂峠同様、信濃善光寺や秩父三峰山は相互に多くの参詣者が行き来したし、米のとれない秩父に、佐久の米がこの峠を越えて運ばれた。
白泰山への道は、昔からの十文字峠道である。道端におかれている一里観音、二里観音の石仏は、栃本から長野県南佐久郡川上村梓山に至るまで、約一里ごとに建てられている六基の観音像の一部であり、往古より山を越える旅人を見守ってきた。
旧秩父往還の往時の名残が、西武秩父駅から秩父鉄道の秩父駅まで、線路の西側に見れる。

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